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天花の部屋
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先日教育テレビで神風特攻隊の多くが生き残っていたという番組を見て,びっくりしました。福岡市の振武寮で隔離され,戦後そのことを語るのを禁じられていたというのも,興味深い。その多くが飛行機がおんぼろであったため途中の南西諸島に不時着(軍は収容するシステムを持っていたようだ)または途中待ち伏せている米軍機に落とされていたという。まあ三菱のエンジンなら鹿屋から沖縄まではもたんでしょうな。今でもあぶないエンジンですから。わたしは昔ミニカを買って故障の多さに負けましたから。しかし死んでいった英霊に対して生き残った者はみんな口を閉ざしている。私の亡父は当時鹿屋で特攻の残りだったが,このことは知らなかったわけだ。先に行った者の7割は,実は皆生きていたということを。当時は特攻は行ったら死ぬのが目的であったため,生き残りはいないという原則だったから密かに隔離されいじめられたという事実の方がむごい。いじめた将校は最近まで生きていたが,インタビューで最近までいつもピストルを所持していたと語っているのも悲惨だ。みなさん詳しくはネットの振武寮で調べましょう。
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確かにブタネコさんのご指摘通り、仲代・鈴木京香の敬礼の形が海軍ではなく陸軍であった。何故監督は気付かなかったのだろう、大和の乗員は皆、海軍式であったのに残念です。
亡き父は生前戦争のことを多くは語らなかった。鹿屋基地の特攻隊での終戦だったようだ。なくなって30年を迎えた今年だが、この大和を見て銃撃を受けて亡くなった方々の死に方は、幼い頃聞いたこととクロスして現実を見たような気になった。ちぎれていく体と飛び散る鮮血、私は元来戦争物は嫌いであるしかし、20,30,40代の人の方が先の戦争を美化し始めたこの世相は、平成にもあり得るかも知れない不安を感じる今日この頃である。当時死んでいった多くの遺骨の帰ってこない人たちの御霊に哀悼の意を表すのに国家としての靖国は必要であるが、戦争責任者を共に哀悼するのはいかがな物か、例えそれが神道という事であろうと私には納得できない。


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大和が撃沈されたのは日本にとって大きな損失だった。軍備の拡大がいかに悲惨なのか、感じることが出来た。
行くきっかけになったのは、ブタネコさんのブログを見たときに自宅から2時間で行けることがわかったからだ。

1年前に尾道のドックで大和を見かけた。この写真は向島の民家の庭から撮影させて頂いた。

零戦があった戦時中亡父が鹿屋基地で乗っていた。もう少し早かったら突撃していた。当時機材がすくなくなっていて本土決戦に備えて、山に穴を掘って隠すよう命じられた。




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